SHISAKU のきろく

あたまからわきだしてあふれたものたち(記事にはアフィリエイトが含まれることがあります)

essayを読んだ

読んだと言ってもけっこう量がある本で、読み上げ機能の助けを借りながらようやく半分読み終わったところなのだが。

読んだのはこの本。

 

中学のころ「寺内寛太路一家」が大好きだったので、その文庫本だけは読んだことはあったが、向田さんの本を読んだのは何十年ぶりだった。

 

読んでいて分かったことだけれど、分かったと言っても、自分自身のことなのだけれど。

それは、どれだけ文章力があっても、わたしにはこういうふうにはかけないな、ということだった。

素人がこんなふうに思うのは当たり前で、わざわざ口に出すこともないのだが、文字通りの意味ではなく、

こんなふうに子供時代のことをスラスラと頭の中から表に出すことはできないな、ということなのだ。

 

なんだか私の子供時代は「トラウマ」そのもので、その大元の原因はきっと母に好かれていなかったことだ、と今ごろになって気づかされたためだった。

そんなトラウマをこんなふうにさらけ出すこともできないし、認知症になってますます「他人の気持ちを察することができない母」、「私に恨みを持っている母」という姿が明確になってきて、何かあるたびに「ああ、子供時代にあんなことやこんなことをやったせいで、今でも恨まれているんだ」と毎日のように考えさせられているからだ。

 

まぁ、そんなことをボケた母に当たるんじゃなく、このまま抱えて墓場までもっていかなければ、と逆説的に(?)自覚を新たにさせられた次第である。

 

それに、先日テレビで伴淳三郎さんの姿を見たり、こうして向田さんの本を読んだりすると、ほんとうの父や母に会ったような気持ちになって妙に心が落ち着くなぁ、となぜか感じるのだった。