毎朝、大日如来のミニチュア像と神棚と仏壇と観音様に
家族の無事を感謝し健康を祈っています。
毎日母のつぶやきで罵り言葉を浴びせられている身でもあり、
その呪いが少しずつこちらの心身をむしばんできているように
感じられています。
今の世の中はこういう状況なので、
イギリスの首相やロシアの大統領のように
「オレは偉いからお前ぇたちのようにコロナなんて関係ねぇや!」
と思える身分ではないので、
どんな人も心のコップの水がすりきりいっぱいになっている状況だと思います。
そんな状況で、大量殺人、巻き添え自殺を狙った事件を
マスコミが興味本位に報道するから、
それに刺激された「すりきりいっぱい」の心の中の悪魔たちが
蠢きだすものだと考えています。
いったい「祈り」と「呪い」はどう違うのか?
そう聞かれるとなんだか「自己都合」でしか判断できないような気もしてきます。
中国では「祈る」ときも「祝う」ときも「祝」の字を使うので、
「兄」という字に「示」がつくか、「口」がつくかで
正反対の意味になるような、やはり根源は同じような、そんな気がして、
結局はよくわかりませんが、
「祈る」ことさえ少し憚られるような気もしてきます。
調べてみると、「兄」という字は、
祝詞を入れる器を頭の上に乗せた人を描いているのだそうです。
「示」という字は祭壇を描いているらしいのですが、「祟る」という字にも使われているように、やはり「祈る」も「呪い」も同源ということになるのかもしれません。
もともと人間の心の奥底にはそういう力が潜んでいて、それを顕現させるのは、いいことなのかどうか。若いころにはそういう力がつけばなぁと思っていたのですが、今更そんなこともあまり思わなくなりました。
ブッダは「祈る」ことも「呪う」ことも否定されていたようですので、あとは心静かに生きるだけと思い定めて生きていくのがいいのかもしれません。